2007年11月20日

「非コミュ」について


「非コミュ」という意味


「非コミュ」という単語があるのだが、言葉の解釈を勘違いしていた。というか、混同してた。というか、よくわかっていなかった。まぁ、その話は一旦置いといて、まず「非コミュ」という言葉の意味とは何だろうか。はてなのキーワードではこう説明されている。

所謂「コミュニケーション能力」において劣っていると判定され、またそのために、「コミュニケーションの舞台」にあがる意欲が減衰し、所謂「コミュニケーションの舞台」から退却している人。
非コミュとは - はてなダイアリー はてなブックマーク数

要するに、他人とコミュニケーションするという能力的に「外面」から見て劣っているという意味合いである。ただし、以下のような参照が張ってある。

注:ただし、昨今の議論(2007年4月現在)における非コミュはオレ理論グループの定義において語られるケースが多い。
非コミュとは - はてなダイアリー はてなブックマーク数

では、オレ理論グループなるところの定義はどうなっているだろうか。

他者との社会的関係性が能動的・受動的に関わらず、絶たれている、もしくは殆ど繋がっていない状態・その状態に陥っている者を指す。主に、当事者内における他者に対する心理的な態度・姿勢を定義したものであり、慣例的な社会的行動・コミュ行動を実行する能力の有無とは関係はない
非コミュ - オレ理論 はてなブックマーク数

最初の一文は、一見はてなと似たような定義になっている。しかし、次の文で「当事者内における他者に対する心理的な態度・姿勢」とうたわれている。そう。こちらは「内面」からの定義になっているのだ。

俺の勘違いは、この後者(内面)の定義によるというか、まさに後者の意味しか考えていなかったのだが、元々は能力的(外面)な部分を定義してあったということだ。この二つの定義は、注意しないと混同しやすい。というか、明確に意識して語られることが少ないと思われる。

「非コミュ」の種類


このように、一口に「非コミュ」と言っても、大雑把に外面的定義と内面的定義が現状あるわけで、その中でもさらに種類や属性があるだろう。それらは一義的分類や属性というわけではなく、当然両立可能なものもある。

それでも、あえて特徴を見ると、前者の定義では「コミュニケーションをとりたいのだが、様々な理由からとれないでいる」と読み取ることができる気がする。その「様々な理由」というのは、自意識による羞恥心であったり、完璧主義による緊張であったりという内面の問題もあるわけだが、共通するのは、『「コミュニケーションの舞台」』なるものを認め、自分自身の価値判断の基準でその「舞台」が上に位置するという事を前提としていることだ。ただ、否定的ストロークを繰り返した結果として、そのような価値判断を嫌悪したり、前提として認めなくなってくるということは起こりうるだろう。これは、後者の定義に繋がってゆくと見られる。

一方、後者の定義では、第三者から見れば「(自称)非コミュ」とも捉われかねない。はたから見ると何でもありである。なんせ、『慣例的な社会的行動・コミュ行動を実行する能力の有無とは関係はない』のである。どれだけ不特定多数と仲良くしてようが、如何なくリーダーシップを発揮してようが、「浮いている」というキーワードによって、「非コミュ」となりうるのである。これは、明らかに前者の定義と矛盾するのであるが、言わんとすることは分かる気もする。

「非コミュ」の拡大解釈


このような、後者の「非コミュ」の定義によって、「あれ、私も「非コミュ」なのかな?」というような発想が生まれやすい事が予測される。何故なら、「常に周りの人と深い関係を持っている」と自覚する人は少ないだろうし、大抵の人は、なんとなく疎外感を感じたり、コミュニケーションに空虚感を覚えたりする場合もあるだろうからだ。
これは、性格判断などにおいて「あなたは見かけによらず、人一倍こだわりを持つ傾向があります」や、「一見○○ですが、実は××なこともあります」のような文言に対して、自分が当てはまっていると思い込んでしまう現象に似ている。

しかし、これらは「非コミュ」の拡大解釈であると考える。内面的な問題だけに、その判定の境界線を見分けづらいのだが、少なくとも時折感じるような感傷があれば即「非コミュ」と判定してしまうと、ほとんどがそうなってしまう。

「非コミュ」と「否コミュ」


ちょっと、ここまで書くのに時間かかりすぎたので、この先は別エントリとする。

posted by suVene at 23:02