2007年02月27日

強者と定義する者への逆差別


 世の中の価値観や物事・立場というのは、色んなかたちで分断できる。
そして、ある一定の「恣意的な境界」で一刀両断する事により、マイノリティとマジョリティに分断できることは当然である。
よく、「世の中には二種類の人間がいる」などと言われるが、この種類分けは無限に存在する。

 問題はそのマイノリティに分類される側が、マジョリティから抑圧を受けていると考えていたり、マジョリティに対してコンプレックスを持っている場合である。個人的には、その抑圧が社会的・構造的・制度的に見て不当なものであれば解消していかなければならないと考えるし、コンプレックスがあるならば、いや、コンプレックスの有無に関わらず、無理にそのマジョリティの価値観を押し付けるべきではないと考える。その意味で、問題を定義し解消しようとするならば、マイノリティが(できれば結託し)声を上げることは必要不可欠であると考えられる。何故なら、声を上げない被抑圧者は不可視であり、他者から見て存在しないのと同義であるからだ。

 俺が気になるのは、その問題を定義する為に引かれた「恣意的な境界」により、「内側と外側」「経験した者(現場)とそれ以外の者」「弱者と強者」というラベリングがなされ、敵対・対立する構造や心理に陥ってしまうことである。「恣意的な境界」であるはずの境界は「唯一の境界」に摩り替えられ、こちら側とあちら側に振り分けてしまうことである。

 この誤謬は、己が振り分けなくても、他者に振り分けられるという意味において、何時でも誰でも陥る可能性を持っている。境界を意識し、手法として敵対・対立し、マジョリティである価値観・階級・構造を打倒せねばならないと考える人もいるが、それはそれで一つの考え方であろう。しかしそうではなく、無意識のうちに(又は意図的に隠して)この摩り替えが行われている人の中に、「弱者である」という立場を印籠のように振りかざし、強者と定義する者を「決して理解しえぬ者」と偏見し、排撃・排他する者がいる。俺はそこに疑問を感じる。

 何を疑問視するかといえば、(こちら側とあちら側を隔てる境界が恣意的であることを忘れ)唯一の境界であると考えてしまっているものは、己が「強者と定義付けられる可能性」を露ほども考えないことである。恣意的な境界は無限に存在するにもかかわらず、「強者は弱者を知らぬうちに抑圧する」と強弁することである。強者と定義付けられた者もまた、別の境界により弱者となり、己が抑圧側に周る可能性をまるで無視したかのような言動に疑問を感じる。

 「強者は弱者を知らぬうちに抑圧する」というのは、ある意味で真である。先ほども述べたように、不可視である被抑圧者は被抑圧者足り得ず、人間が蟻を踏み潰すように踏みにじられている権利や尊厳というのは確かに存在する。ただ、その人間と蟻という概念は、簡単に逆転する可能性を持っていることを忘れてはならない。

 一方、「私は余裕がないので、それ以外の境界を考えて行動する余裕はない」という理屈があるのもわかる。しかし、俺は他の境界による弱者の為に行動せよと言っているわけではない。別の境界を無視するのならば、別の境界による弱者を踏みにじっている可能性を意識すべきだと言っている。無意識に花を踏み潰しながら、蟻を保護せよというのではなく、「花を踏み潰してでも、蟻を保護せよ」と同義であることを意識せよと言っている。その上で主張するのならば、もはや言うことはない。それも一つの選択肢だと考える。

 俺は基本的に競争や揉め事が大体においてメンドウなので嫌いである(その割りによく揉めるのだが)。なので、境界による分断がある事は理解できるが、できれば対立せず、できる限りその境界により分断された問題のみを抽象化し、解決する為には境界を跨いで、協力できるもの同士で解決できればなぁと考えている。何故なら、その境界に固執していては合理的な解決の難易度が高まるからだ。

 人を振り分ける境界というのは、何時だって恣意的な境界であるという事を忘れてはならない。

posted by suVene at 15:42