2007年01月05日

文章から人格を読む人・読まない人


 ネットを徘徊しているとたまに見かけるのだが、興味深い価値観がある。それは
「文章(ブログ)を書いている人物の人格を想像、又は知ること・観察することが楽しい」という価値観である。
何が興味深いかというと、俺にはほとんど皆無である価値観だからに他ならない。

 そのような文章で見られた特徴を挙げてみると
・ 初めて見て興味を持ったブログなどでは、プロフィールが欲しい
・ どのような背景を持つ人物なのか興味がある
・ その著者の持つ感情などを想像する
などなど。まぁ、タイトルどおり文章から人格と背景を読むわけであり、同時にそれが面白いと感じるようである。そして、そのような人達は、自分自身もまたプロフィール欄をきちんと用意し、どのような背景を持ち、どのような感情を抱いて生活しているかということを徒然と記述していることが多い。

 その事に気づいてから、幾つか疑問だったことを考えるキッカケができた。それは「何故俺が名称を覚えるのが苦手か」ということである。元々記憶力が悪いということもあるが、特に年月日・人やモノの名前 などが苦手で、かなり漠然と記憶していることが多い。つまり、ネットでもリアルでも基本的に具体的な人やモノに興味を持つ頻度がかなり少ないのだと思う(まったく無い訳ではない)。以前は、笑いのネタ的ではない個人の趣味嗜好を開陳するようなバトンやランキングなどを皆が何故書くのかよく分からなかったのだが、そのような価値観によりかかれることもあるのかもしれないと思った。いわゆる「自分語り」というやつだ。

 これは、「人間観察」に興味が無いということとは少し違う。「とある誰かが○○と考える」ということを分析したり、見たり聞いたりすることは好きだからだ。しかしそれが「Aさんが○○と考える」となるとなかなか興味を抱かないという話であり、はっきりいえば相手を個として見ることが少ないので、何とも失礼な話なのかもしれない。ネット上にある見知らぬ人のバトンなどは、ほとんど読んだことがない。

 よく「誰が書いているか」と「何が書かれているか」を対比して語られることがあるが、明らかに俺は後者の度合いが強い。これは、権威や上下関係というバイアスには陥りにくいが、度を越すとかなり支障がある。特に、政治的・組織的な集団においては、後者の考え方は明らかにデメリットが大きいことが多い。小規模な集団においてはそれほどでもないが、大規模な集団になると、力関係や人間関係、政治力やコネなどがモノをいう世界が沢山ある。そんな中で、上下関係を無視して(無礼にという意味ではない)、内容でもって意見を述べると「生意気である」と捉えられたり、「協調性が無い」と業務上、上の立場の人から指摘されることがある(いや、実際に生意気で協調性が無いだけかもしれんけど)。 そのような判断を下されると、作業分担や効率にも影響してくる。要するに、力量や得手不得手ではなく、生意気でなく上のものに逆らわないという協調性があるものが重宝されるということだ。

 これは、不平不満ではない。「誰が話しているか」を考慮することがほとんど出来ない俺の選択による結果であり、明らかな不利益を考慮できない自分自身の愚鈍さを表す話である。強盗や暴力的犯罪者に対面して「暴力はいけない」といって、身の危険を冒すような愚鈍さの話である。(上の人が強盗という意味でなく、不利益を考慮できていないという話)

 いずれにしても、組織的な場所や共同体ならばまだ理解できるが、不特定多数や社会的な場や公の場にまで拡張して考える価値観というのは、個人的にとても興味深い話だなーってことで、特にオチはない。俺のことが嫌いな人は政治的・集団的圧力をかけると処理できるよというような話である。

 今度試しに具体的な興味の話でも陳列してみるかな。

winter note - ランキングの魔力

posted by suVene at 11:55