2008年03月20日

「感情の共有派」vs「自称論理派」


感情の共有ができないことは欠落である はてなブックマーク数
http://anond.hatelabo.jp/20080319004540

を読んで。
内容は、「自称理論派は自分が正しいと思い込んでいて感情を共感する能力なく、なにかが欠落している」という話である。
同意できる部分もあり、幾つか異論がある部分もある。

感情の共有が出来ないことは欠落か


個人的な結論を言えば、全く誰にも共感することが出来ない人間、というのならば欠落である。人間というのは、共感、共有をなくして社会的活動はほとんど無理である。全く他人の感情を推測することが出来ないという意味で「感情の共有が出来ない」のならば、欠点といわざるをえないと考える。
ごく自然に人の感情を汲み取り共感する力を備える人間からすれば、
… 略 …
感情の共有ができない人間も明らかになにかが欠落しているように感じられる。

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(強調部分は著者による)

しかし、この「ごく自然に」という発想と、「感情の共有が出来ない人間」という表現が、この文章だけを読むとクセモノである。これは、「自然に感情の共有ができる」という発想から、「感情の共有が出来ないのは不自然」であり欠落であると結論付けているのだが、この前提に同意できない。
個人的に考えるに、人間は、「自然に感情の共有」は出来ない。生物的な恐怖や痛み、(身体的な)快感などの反応などは、まだ共通する部分が多そうだが、価値判断において多様性を認める限り、何を快・不快に思い、何に妬み・尊敬を感じるかなどは、自然と共有したり、推測したりできるものではないと考える。

“常に”極端な人間はいない


引用元のエントリは、「感情の共有の欠落」の例として書いているので、やや誇張気味にしているというのは分かるのだが、“常に”誰に対しても感情を共感する能力が欠ける人間というのは、なかなかいないと考えている。例えば、自分にとってそういう(感情を共有してくれそうにない)人間でも、他人にとっては「感情を共有してくれる相手」なのかもしれないのだ。
たとえば、「Aはおかしい!許せない!」という人に対し、

「Aが正しいと言っている訳ではない」と付け加えながらも、

開口一番「いやAはおかしくないよ」と言う。
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この部分だけでは、とても前提が曖昧なので判断しかねるが、この後に続く、
Aなにやらのせいでどうやら憤り苦しんでいるらしい人が

その言葉によってさらに追い込まれるだろうことは、
感情を共有できる人間には簡単に想像がつき、
言うべきではないと察せられる
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という、「憤り苦しんでいる」状況を知っており、かつ、「Aはおかしい!」と主張されることが、自分の苦しみに直結しない状況であり、かつ、「Aはおかしいと思うが、どう思いますか?」という意見を求められている場でなく、……。というような条件を付加えていって、やっと同意できる文章になると思う。しかし、
自称理論派にはそれを察する能力が無いのだ。

それどころか、正しいことを言う自分は正しい行動をしていると思っているらしい。
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といったようなこれらの文章には、「Aはおかしくないよ」と主張しなければ「どうやら憤り苦しむ」可能性については考慮されていない。実は別の見方からすれば、「よくぞ、Aはおかしくないと言ってくれた!」と考える人間が排除されてしまっている。(例だからしょうがないけど)

このように、ある見方からすれば、「常に感情を共感する能力がない」と断定してしまえそうな事例も、実は「感情を共感する能力がない」とその場にいる周りから判断されているのは、「Aがおかしい!」と言っている人だという可能性も捨てきれないのである。いや、相対的に持っていってもしょうがないのだけれど、可能性は考えておいて損はない(かも)。
上記の引用が、果たして「共感能力」を活かした推測なのかどうかはさておき、何故「論理」が必要なのかを考えてみよう。

何故論理が必要か


単純に考えれば、前提を理解して(又は認めて)、論理が間違っていなければ、結論が推測できるからに他ならない。
そもそも、「感情の共有」というのは、似たような文化や趣味や価値観。あるいは、長い対話の時間をかけて、初めて相手の感情を読み取るといったことが可能になってくると思われるが、そこまで到達するのは、考えているより難しいのである。
その、「感情の共有」をする相手が、(物理距離的な意味で)身近にいる人間ならばまだしも、インターネットにおけるコミュニケーションなどが活発なるに従って、相手がどのような環境で育ち、どのような価値観の元で物事を判断しているかを、文字や言葉から推測しなければならないとなれば、尚更である。(今はまだ文字によるコミュニケーションが主流なので)
しかし、相手の発言により、好み・快・不快・不平不満等を「共感」は出来なくても、「理解」することは可能である。そういう理解の積み重ねによって、初めて感情の推測が可能となってくるのだ。それは「論理」という大げさなものでないとしても、ある程度道筋だった推論であるはずなのだ。要するに、「論理」とはそういった決まりごとを定めたルールなのである。
(極論すれば、現象や感情を変数・数式に当てはめて、だからこういう結論(Q)に至る、という説明でもよい)

怖いのは相手の気持ちが「分かるはず」という思い込み


というのを書こうと思ったが、また今度にしよ。

理論派vs共感派


とりあえず、簡単な結論というか思うことは、自称理論派にしても、自称感情共感派にしても、一まとめに括って大雑把な例を挙げて議論することは、あまり意味がないと個人的に考える。まぁ、意味なんか別に必要ないのだけどね。


参考エントリ


感情の共有ができないことは欠落である はてなブックマーク数

関連エントリ


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posted by suVene at 20:22